先日のエントリで親父の生家のことを想い出したので、もうちょっと書いてみよう。
以前調べた通り、針生の家系は桓武天皇を祖とする平氏の末裔で、会津蘆名氏の家督だったのが伊達に敗れ、客分として仙台に連れてこられたのだそうである。
政宗が隠居して若林城(今の宮城刑務所)を築いたのに伴って市街が広瀬川までとなり、奥州街道の南の入口となる河原町に、夜間は閉ざす門が設けられ、その門番を任じられたのがウチの本家だった。
近隣の穀倉地帯の農作物が集積する青物市場が立っていたので、秀吉の朝鮮出兵でもその品質が認められた伝統の仙台味噌醤油を造って町の武家や職人達へ届けるようになって分家したのがワシの曾祖父なのである。
その家や蔵はおそらく江戸時代末期か明治の始め頃に建てられたのだろう。戦火には耐えたが、昭和五十三年の
宮城県沖地震で倒壊してしまった。
間口はさほど広くないが、奥行きは町内1ブロックを占め、店舗から続く自宅・土蔵・岩倉×3棟・工場と並んだ端から端まで石畳の上にレールが敷かれ、味噌樽を運ぶトロッコが走っていた。