ITコーディネータ 針生徹 の blog
カテゴリ:Memories( 30 )
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反抗期
わざと叱られるようなことばかりやったり言ったりしている次男君を見ていると、やっぱり相手して貰いたいんだよなぁ、と自分の頃を想い出す。

中学で体育用具室の引っ越しがあった。

「だりーなぁ…」

こいつとバカ話をしながら、重そうな荷物をアリみたいに一生懸命運ぶ級友達を眺めていた。

新しい部屋で指図をしていたらしい先公の姿が見えたってことはそろそろ終わりそうな頃なんだろう。なんか1つぐらいは運んでアリバイを作っておいた方が良さそうだぞ。

古い部屋へ入って物色するが、既にあらかた片付いていた。なんだ、ワシらがやらなくてもちゃんと世の中動くじゃん。感心感心。

一人でも楽勝で 10 本ぐらい持てる竹の旗かなんかが数本残っていた。

「これを二人で運んだら絶対何か言われるよな」

「何て言われるか試してみようぜ」

バレーボールの選手としていい所まで行った体育教師。190cm 近くあって胸板の厚い強面タイプである。腕組みをしたそいつがジーっと見つめる前を竹竿を前後に担いで通る二人。目を合わせないように真っ直ぐ前だけを見据えるが、自分でもバカらしくてこみ上げてくる笑いを抑えて神妙な顔をするのが辛い。

「おいっ、それを置いてちょっと来い!」

何て言われるか、などという間もなく、思いっきり殴られた。

「なんか言いたいことあるか?」

いえ、何もありません。見捨てないでくれてありがとう。 とっても痛いですけど。
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by HarryBlog | 2008-06-24 07:04 | Memories | ↑Top  
CRYSTAL CITY
かんからかんのかあん | 音楽の話をしよう♪ その8 山と 心もよう
「中央フリーウェイ」はすっ飛んで行ける気がして好きな歌だが、ユーミンの鼻から抜けるような声は腑に落ちない。それなら弟がよく聴いていた大橋純子の伸びやかな声の方が好きだった。
また懐かしい名前が出てきたね。大橋純子か、確かによく聴いていたっけ。シンプル・ラブ、たそがれマイ・ラブ、シルエット・ロマンスなどのヒット曲も好きだが、あの声は歌謡曲っぽいのよりライブでのフュージョンっぽいバックに乗せた方が似合うね。

そして実は… 有名になる前に、彼女とは一緒に食事したことがあるんだ。
附記
ユーミンのデビュー年を確認するために、wikipediaを見ていたら、荒井由実は中学の頃、六本木のイタリアンレストラン「キャンティ」に出入りしていて、そこで出会った村井邦彦に勧められて、歌手デビューした、とか書いてあって、「えっ?・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」って フリーズした。
これを読んで固まったのはワシの方だよ。大橋純子と同席したのは、他ならぬそのキャンティなのだからな。 キミも行っていたとは知らなんだ。
それを読むまで、まったく私の記憶から落ちていたのだが、私も大学の時、たまたま父に連れていってもらった 「キャンティ」で出会った K氏(店のオーナーの息子?)に、どういう話の流れだったのか、私の友だちで歌のいい子がいるから、とかなんとかスーさんのデモ・テープを聴いてもらうことになって、後日スーさんと K氏のプランニング事務所を訪ねたのだ。
それなりに遊んでいたとは言え、オバQ沿線の高校生の社交場はもっぱら新宿である。青山とか六本木なんて行けないから悔し紛れにあの辺で遊ぶ奴は低俗な人種なんだよと嘯いていたヤンキー少年が待望のクルマを手にした頃、迎えに来いと親父に呼び出されたのだな。

ただでさえ慣れない飯倉なんて街、客は業界人っぽいのばっかの高級レストランで「好きなもん食っていけ」と言われたって困ります。キョドるワシに、丁度同じ時間に店に着いたK氏(アルファの創設者と書いたらイニシャルの意味無いが)の彼女(某有名女優ではなく)が気を利かせて一緒に食べましょうと誘ってくれた。で、彼女と一緒に来たのが大橋純子だったのだ。

二十台中頃だったろう、後にテレビで見ることになる通りの短髪と恐い化粧だったが、大きな口を開けてよく笑う楽しい人だった。何を話したかは全く憶えておらんけど、旨いバジリコを食べながら2時間ほど過ごしたと思う。

その数ヶ月後に出したシンプル・ラブが大ヒット、東京音楽祭でブレイクすることになる訳で、きっとあの時のワシとの会話で何かが吹っ切れたのだろう。 なんちて。
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by HarryBlog | 2007-12-08 22:29 | Memories | ↑Top  
味噌造り
ワシゃみそ製造技能士なる資格を持っている。

ワシが仙台の家業を継いだ時は既に宮城県沖地震で味噌蔵は崩壊してしまっていたので、原料処理~製麹工程は組合へ委託し、ウチでは混合~発酵工程だけをやっていたのだが、品質を維持し、独自の味を追求するにはやはり全工程を理解してその処理状況を把握できなければならない。

そこで、筑波研究学園都市にある農林省食品総合研究所へ半月ほど通って大豆タンパクや微生物の基礎とか分析技術を習い、組合の現場で各工程を体験して熟練者から判定法を教わった。原料となる大豆の選別や蒸煮の程度、麹の付き具合など各工程に難しさはあり、原料処理工程は確立され機械化が進んでいるが、農作物と微生物が相手だから毎回微妙に条件が変わるのを如何に平準化するかが課題である。

さらに難しいのが、温度と時間に委ねる発酵処理である。桶やタンクの上と下、外側と中心部で条件が異なるので、重石を調整し、数ヶ月に一度天地返しを行なうのだが、ウチのような零細企業ではこれは手作業である。30°C に保たれた室で 4t の味噌をスコップで隣の桶に移すのだからサウナどころではないダイエット効果がある。

体重が減った分は汗となり、多少は蒸発もするだろうが、大部分は製品中に撒かれることになる。塩分だけでなく、二日酔いの汗が酵母の働きまで調整するのである。道理でウチの味噌は評判がいいと思った。

問題は同じ味を再現するのが至難の業だということ。なにしろ数ヶ月前にどれぐらい呑んだかなど管理しておける筈も無い。この辺りが工業化の壁となり、ウチは製造から撤退することになるのだった。

さて、海の向こうで呼ばれた気がしたんだが、以上のように工程そのものよりも nike + iPod で調達する汗の成分をどう調整するかが鍵となるのである。 【肉ぅ】はほどほどに。
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by HarryBlog | 2007-09-24 23:01 | Memories | ↑Top  
長靴
先日の を見て、あの時にもブログがあったらなぁ、なんて思った。

どこまで歩けば助かるのか分からないまま独りパッソルを押した夜の那須の山道はそりゃ情けないったらありゃしなかった。真っ暗だから写真は撮れないだろうが、「こんなバカなことをやってます」というのを誰かが読んでくれると思うだけでも心強かっただろう。

あの時、ブログの代わりにワシを支えてくれたのは「長靴」だった。

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by HarryBlog | 2007-06-18 21:57 | Memories | ↑Top  
死体
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by HarryBlog | 2006-11-29 23:27 | Memories | ↑Top  
フロンティアスピリット
パリで知り合った詩人の飯島耕一氏が、ワシの滞在中にブラジルを訪れて来たので、どこかで会いましょうと申し出る。すると、予定が空かなかったのか、なんと総領事主催の食事会に紛れ込むハメになってしまった。

立食パーティーではなく、ちゃんと一人ずつ席のあるディナー。貧乏放浪者にとっては有り難い話なのであるが、同席した人達は戦前に笠戸丸に乗って移民してきたような長老ばかり。

場違いな雰囲気に縮こまってひたすら呑み食いするだけだった。いい具合に酔っ払い腹が満ちてきた頃に「じゃぁせっかくだからお一人ずつスピーチを」などと領事夫人が言い出す。

何を喋ったかよく憶えておらん。突然の付け焼き刃で格好付けられる筈も無く、感じていたことを素直に吐露しただけだった。

それまでの半年間アマゾンやノルデスチ等を一人で巡り、言葉は満足に話せなくとも同じ人間として通じることも多いのを知ったし、逆にそれぞれの文化の違い、日本の良さも再発見、というより初めて気付かされた。どこでも暖かく受け入れて貰えたのは、楽天的なラテン気質もあるだろうが、日本人移民一世がこの広大な自然の中で想像を絶する苦労をしながら築き上げた信用のお陰である。それを感謝し誇りに思う。

一人の白髪の老婆が近寄ってきて、笑顔に涙を浮かべて「感激しました」とハグしてくれた。

あのときの温もり、彼等から生きる力を授かったのだ。 弱音なんか吐いちゃいらんねぇよ。
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by HarryBlog | 2006-11-04 00:23 | Memories | ↑Top  
サイクリング
近所にはドブ川とか玉川上水ぐらいしか無く、ちゃんとした川としては多摩川まで行かなければならないのだが、チャリンコという羽を得た小学生にとって小一時間というのは手頃な距離である。

古くから住宅が密集する小田急沿線だが、河原だけは広々とした自然が残る飽きない遊び場であった。和泉多摩川でボートを借り、本当は海へ出たかったのだが、すぐそこに堰があるのだ。ここの魚道を滑り台にして尾てい骨に痣を作ったからよ~く知っている。

じゃぁってんで、藪に隠しておいたチャリを載せ、奥多摩を目指して遡る。

ところが、岸辺のアルバムが流された泥の堆積した浅瀬はなかなか進めない。足を取られながら押していくと次第に腰まで浸かっていく。なんとか再び漕いで進める深さに戻れたが、その努力も京王線のガードが見えた辺りまで。あの堰堤はちょっと越えられねぇよなぁ。

ボートは諦め、チャリを降ろして土手沿いを走る。夕陽がとても綺麗だったが、どこまで行っても街並みが切れないぢゃねぇかよ。東京って広いんだねぇ。

腹も減ったし、そろそろ帰ろう。
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by HarryBlog | 2006-10-11 08:05 | Memories | ↑Top  
探訪
小学4年か5年の頃に仲の良かった友達が引越し・転校してしまった。

高幡不動。京王線で一本であるが、世田谷辺りの小学生の感覚からすれば大変な山奥である。だが、今生の別れのような気はしなかった。一応東京だし。

相変わらず毎日は面白かったので次第に忘れていったが、何かの折りにそいつの話が出たとき、「よし会いに行ってみるか」なんて誰かが言い出す。

駅名しか聞いていなかったのだが、行きゃなんとかなんだろ、なんてやはり小学生の浅慮である。いや、今でも変わってねぇか。

モノレールが既に在ったかどうかは覚えていないが、多摩ニュータウンなどは未だ無く、百草園とか多摩動物園とか、やはり紛れもない山奥だった。

参拝客はそれなりに居たんだろうが、下北沢なんかと比べると随分小さな駅舎を出ると、ロータリーを囲んで土産物屋や食堂が数件立ち並ぶだけ。その先はいきなり緑の多摩丘陵、子供から見れば立派な山である。

方角も不明なんで、とりあえず参道を進む。街道を越すともう境内であるが、そんな所に用は無い。山と反対側を迂回すると民家が並んでいるがどうやら古くからの地元民のようである。アパート暮らしから待望のマイホームを手に入れたのだから新築に違い無いと勝手にイメージしていたんで、ここは素通りする。

墓地を回って山の裏側へ出ると思いの外視界が開けていて、盛んに造成中のようであった。これですよこれ。結構な広さであるが、未だ家はまばらにしか建っていない。半日掛けてほとんど全区画を歩き通したローラー作戦の結果、遂に念願の表札を見つける。

そんなに珍しい名字じゃないし、親父の下の名前を知っていた訳じゃないけど、もう歩き疲れたからここに決めた!

ところが、呼び鈴に応答が無い。せっかく訪ねてきてやったってぇのにどういう料簡だぁ?

庭に回って中を覗いてみる。確かに人の気配は無いな。居留守って訳じゃ無さそうだ。どこもきっちり鍵閉まってるし。おい、どうするよ?

途方に暮れながら再び窓を見ると、上部に小窓がある。 「おいっ!」 と、肩車して貰って手を伸ばしてみると… 開いた!

大人じゃきついだろうが、手さえ届けば子供なら簡単に侵入できる。内側から鍵を開け、堂々とお客様として中へ入り、腹が減っていたので冷蔵庫にある物を片っ端から食い散らかしながら、後は家主の帰りを待つばかり。

そして、感動の再会! いやぁ良かった良かった。
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by HarryBlog | 2006-10-09 06:31 | Memories | ↑Top  
或る日
世田谷区北沢4丁目辺り。茶沢通りから下北沢駅前交番の小田急踏切を渡り、一番街と別れて大山交差点方面へ抜ける途中のクランク型に曲がった所の裏側、住宅街の真っ直中にドブ川があった。

その辺の百メートルほどだけが露出しており、小学生の頃はよくザリガニを採ったものだ。

他の区間は地中に土管が走っている。その先がどこへ繋がっているのか、友達二人と探検に入ってみたことがある。直径 2m ぐらいだったろうか、子供が歩くには十分な高さだった。

思いつきだから懐中電灯など持ってきていない。入り口からの灯りが途絶えると、生活排水のヘドロが乾いた壁を手探りに進むしか無い。闇も恐いが、それよりどれぐらい進めばどこへ出られるのか全く見当も付かないってのが最大の不安だった。だが、小心者と見られたくないから「行けるとこまで行こうぜ」などと虚勢を張ったりする。

仲間と一緒だと心強い。不安を打ち消すように交わす冗談がやたら可笑しく、暗闇に笑い声が響く。こんなバカなことやってるのは世界でも俺達3人だけなんだぜ、なんて連帯感があった。

それでも、進んでも進んでも果ての無い闇に何度引き返そうと思ったことか。退路が断たれていないことだけが拠り所だったのであるが、その距離が伸びるほど、戻ろうと決断するのが困難になっていく。

3時間ほど歩き続けて、遂に再び日の目を見ることができた。小田急の線路を越したところ、オデオン座の裏へ出た。距離にして 1km も無い、ささやかな冒険であったが、少年達の心は達成感に満たされおり、ヘドロだらけの互いの顔を見合わせて笑いが止まらなかった。
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by HarryBlog | 2006-10-07 11:35 | Memories | ↑Top  
予告編
仙台屋敷の話が新聞に載っちゃったらしいな。じゃぁ調子に乗って今度は自分が育った家の事も書いてみようか。

生まれたのは中野らしいが、すぐに荻窪に引っ越したそうで、そこも三歳前までだったのでほとんど記憶は無い。で、下北沢っつうか住所は大原だが、高校を出るまで育った家がワシにとっては故郷なのである。

山手線内と成城学園等の間ってことだからだろうか、結構庶民的で、狭い路地で区切られたブロックに小さい家が密集していた。なにしろ、下北沢・新代田・代田橋・笹塚の各駅がだいたい等距離で歩いて15分、渋谷や新宿まで30分あれば行ける便利な所だから、広い土地を独り占めするよりも、なるだけ沢山の人に売ったり貸したりした方が儲かったのだろう。



ウチは借りていた。が、ワシが学校に入る前に改築したし、その後親父の書斎を増築したから建物は買い取りだったのかも。5LDK+1 で、ささやかながら庭もあって椿や紫陽花が咲いていたのを覚えている。

と書き出すと色んな想い出が甦ってくるが、ちょっと忙しいので続きはまた後日。
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by HarryBlog | 2006-02-26 02:06 | Memories | ↑Top  
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針生 徹

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